アドラー心理学について、私色々思うところがたくさんありまして、説明しだすと長くなるので、今日はちょっとだらだら聞いてください。
アドラー心理学って何だ?そもそも何だ?っていう思われる方がいると思うんですが、アドラーさん(1870-1937)とは、元フロイト(1856-1939)の弟子が独立をして切り開いた、現代の自己啓発の流れを作ったとされる心理学者です。
その心理学者が作った自己啓発の心理学、これがアドラー心理学と呼ばれていて、日本では『嫌われる勇気』(2013)という本が出版されてブレイクをしました。
僕は、アドラー心理学を悪いものだとは全然思ってないです。悪いものだとは全然思ってないですが、あまり評価をしてないです。
評価をしてないというか、是々非々で付き合わなきゃいけないものと思っています。
アドラーの目的論とフロイトの原因論
まず、アドラーを語るにはフロイトとセットで語らなきゃいけない訳です。
なぜかというと、アドラーの方は目的論と呼ばれてます。フロイトの方は原因論って言われています。
例えば何か、問題が起こりました。その問題を解決するのに原因は何だったのかを問うて、その原因がもう二度と起こらないようにしようと、その原因を取り除こうとするのが原因論、フロイトさんのやり方です。
一般的にも物事がうまくいかなかった時は、やっぱり原因を追求して取り除いてうまくいく方に努力しようとするものではないでしょうか。普通の発想なんですね。
でもアドラーさんは、こういう考え方をしません。
アドラーさんが取ったのは、「うまくいかないのは、本当はうまくいきたくないからだ。あなたが本当はやりたくないからだ。」っていう風に考えるんです。これを目的論と言います。
アドラーの目的論の具体例「起業するする詐欺」
ここでフロイトに行く前に、ちょっとアドラーを説明していきます。
例えば、「起業するする詐欺」ってあるじゃないですか。起業するするって言いながら起業しないみたいなやつなんですけど。起業しないとしますね。じゃあ、起業しないのはなぜか。
お金と経験がないからとか、人脈がないからとか、そういうこと言い始める訳ですね。
でもアドラー心理学では多分それをその言葉通りに考えないんですよ。
それは金とか経験がないって言ってるけれども、「実際は失敗して傷つくのが恐いんでしょう?だから起業しないでしょう?」っていう風に考える訳です。
そうすると、例えば口では「金がない」とか「経験がない」とかって言ってるんですが、「じゃ、金と経験をあげるよ」って言ってもらっちゃったりすると、もう本当につらいんですね。そしたらせっかくそのできない理由が埋まったとしても、彼は多分やらないんですよ。
何でかって言うと、その「チャレンジして傷つくのが恐い」って思いは相変わらず解消されていないから。
ということで、その時にはまた別の不安が頭をもたげるんですね。
「もし失敗したら」とか「顧客リストがあと100リストないとやらないようにしよう」とか、別の不安要素とか条件を付け足して、どんどんやらなくしていきます。これを目的論と言うわけですね。
課題の分離、自分と他人は違うこと
あと、課題の分離っていう考え方があります。
子供が、例えば勉強しなかったとします。それは親の責任じゃないんです。子供は子供の人生を生きていますから、子どもの責任なんです。
「親が、子供が勉強しないことに思い悩むことは、してはいけないんです」という考え方なんですよ。親は子供じゃないからです。
つまり、原因論、課題の分離、ここにあるのは“自己”という存在なんです。
“私”というこの肉体と精神は、“私”という言葉の中に閉じ込められていて、you、「あなたと私は全く違う他人です」っていう線をバシッと引くリアリティ、そしてバシッと引くことで精神が安定します。
だから「嫌われる勇気」っていう言葉になってきます。本当に嫌われろっていう、そういう意味じゃ全然ないんですね。
大切なのは“私”がある、主体があるというんですかね。我思う故に我がある我がある訳です。という我中心主義です。
フロイトの過去に原因を求める考え方
一方でフロイトさん(先生の方)は、だいたい原因は全部過去に求めるんですね。
今、あなたがうまくいかないのは「過去のトラウマが原因ですよ」とか言う訳ですよ。
あと男根とか、エディプス・コンプレックス、お母さん大好きとか、こういうことに原因を求めるんですね。
別にそれはそんなに間違ってないことも、今科学的に、統計的に証明されちゃってることもあって、例えば、愛着障害というものがあります。
乳幼児期に母親から虐待とか、ネグレクトとかされると、大人になっても愛着障害というのが発生して、他人と上手く関わることができないとか、特定の人と親密な関係を長く結んでいくことができないとか、見知らぬ人でもベタベタしちゃったりとか、ナンパにいっぱい着いて行っちゃったりとか、そういうようなことを誰かれ構わず、みたいなことが起こったりとかします。
特定の愛着を長く適切に維持して人生に役立てることができないっていうのを愛着障害と言うんですが、これはもうほぼはっきりしていて、乳幼児期の虐待というのが大きな原因になっているということは統計的には明らかです。
ということは、フロイトさんは過去に原因があって今がうまくいかないっていうことを言ってた訳で、これはもう本当にそうなんです。
だからアドラーがフロイトを批判して出て行っちゃいましたが、フロイトさんも、別に間違っていなかったんです。
フロイト的療法が最近行われない理由
ただし、今はフロイト的療法ってのはあんまり流行らないみたいです。PTSDの治療に暴露療法というのが取られるんですが、それくらいかな。
フロイトの精神分析はアメリカと比べると、日本では人気がないし、記憶回復療法っていうのが90年代に流行って、めちゃめちゃ叩かれたのもあって、ますます流行らなくなりました。
記憶回復療法っていうのは、過去の忘れたトラウマを催眠療法を使って思い出させるっていう治療法なんですが、催眠で思い出させると、なかった記憶を植え付けてしまうことがあるんです。宗教的な儀式で集団レイプされた記憶とか、ありもしない記憶がありありと植え付けられるんです。
今でも、この方法はカルトとか、スピリチュアルの人たちが意識的か無意識的にやっていて、マジでやばいです。
で、そんななかった話を元に、裁判とか行われたりして、有罪になったりして、もうはちゃめちゃになっちゃった。そんなこともあって、過去の忘れた記憶にアプローチすることは、あんまりされてないんだと理解しています。
でも、原因があって結果がある。その原因を対処して前に向いていきましょう、というのは普通の話です。フロイトが間違ってたわけじゃなくて、それがこういう不運な展開になったことが問題だと思うんです。
蔭山的には、ツールに過ぎない
さて、アドラーの目的論に戻します。
「過去に原因はなくて、あなたが本当はやりたくないっていう思いの方が重要じゃない?」っていう話です。
これを支えているのは強い自我、刻々と私とあなたは切り分けて課題を分離して、且つあなたはあなた、私は私で生きていくというリアリティ、まさに自己の啓発です。
自己っていうのは、「私を私とする」ことを啓発をすることによって成立する考え方です。
この目的論は、さらに遡ればプロテスタント系の思想が非常に色濃く反映されています。そして、労働こそ救済であるという、ビジネスマインドにリンクします。
ということを整理した上で、じゃ蔭山は何なんだという話になるんですよね。
僕はどっちもあんまり好きじゃないというか、分かるんですけど、フロイト先生はフロイト先生で使うし、アドラーをアドラーで便利だから使うんです。
ただし、便利なツールに過ぎず、心理でそればっかりやるという立場には全くありません。
さらに言うと、僕はどっちも取らないというのはこういうことからです。
例えば因果論、フロイトの原因論と同じですが、原因があって結果があるという世界観は、これはもう二千年くらい前に退けられていて、仏教ではこの立場を取りません。因果からの解脱(げだつ)が仏教のゴールだからです。
そして目的論、アドラーの方ですよね。これも仏教から見れば、論外なんですね。
つまり、私の成功がアドラー目的論を支えているわけなんですが、仏教は非我の論理です。私の成功を前提として努力をしませんので、これも退けられます。
つまり、アドラーもフロイトも、あくまでもキリスト教の枠の中の思想に過ぎない訳です。
僕はキリスト教徒じゃないですから、参考にはもちろんしますけど、ものすごく日本人的ではない。
フロイト先生もアドラーも、考え方や思想自体は、日本でとても人気があります。
そして今、アドラーが人気なのは、社会が荒廃して、つまり私たちを支えているコミュニティ、繋がりが荒廃して剥き出しの個人が何とか生きていかなきゃいけない、ということで自己啓発とアドラーというのが世の中に出て評価される。
それはよく分かるんですけど、しかしそれは、私たち日本人のメンタリティを救わないと僕は思っています。
まとめ
ということでなんと、僕はどっちにも取らずそして第三の道を行こうとしている、ということを、ここで告白することになりました。
両者を世界観の理解として利用せずに、ツールとして利用する立場です。
参考になったかな?混乱だけしたかな?
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