この記事は、映画ハンナ・アーレントを観ようかどうしようか迷っている人に向けて書いた。
「面白くなくて時間を無駄にしたら嫌だな」と躊躇している人に向けて。
結論から言うと、時間が無駄になることは決してない。いや、現代の日本人こそ観ておくべき映画だと思う。
(ただし、ハリウッド映画のようなアップダウンはなく、物語は平たんに進むので、エンタメ性を求める方には向かないかもしれない。)
簡単にあらすじをまとめ、見どころ、この映画から感じたメッセージ、という順番で映画ハンナ・アーレントの魅力をお伝えしたい。
あらすじをお伝えする前に、少しだけ想像してみて欲しい。
あなたはナチス親衛隊の将校だ。
このたび秘密警察ゲシュタポのユダヤ人移送局長官に任命されて、ベルリンで勤務することになった。
あなたの仕事は列車でユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所へ送ることだ。あなたの命令で多くのユダヤ人を乗せた列車がアウシュヴィッツへ出発する。そしてアウシュヴィッツへ移送されたユダヤ人たちがどうなるか、あなたは知っている。
さて、あなたはこの列車の運行命令を出すだろうか?それとも出さないだろうか?
出さなければあなたは左遷だ。最悪の場合、粛清される可能性がある。
多くの人は命令を出してしまうのではないだろうか?
この任務を行ったことによって第二次大戦後、イスラエルの裁判で裁かれ死刑になった男がいる。
アドルフ・アイヒマンという男だ。
この物語は、アイヒマンがアルゼンチンに滞在していたところを、イスラエルのモサドに逮捕されるところから動き始める。
【映画ハンナ・アーレントのあらすじ】
1960年、ナチス親衛隊でユダヤ人の強制収容所移送の責任者だったアドルフ・アイヒマンが、イスラエルのモサドに逮捕され、イスラエルで裁判にかけられることになった。
第二次世界大戦中、収容所に入れられた経験のあるドイツ系ユダヤ人ハンナ・アーレントは夫ともにアメリカに亡命して、ニューヨークで著述家として活躍しながら、大学で教鞭をとっていた。
ある日「ニューヨーカー誌」からアイヒマン裁判を傍聴して記事にして欲しいと依頼される。
アーレントはその裁判で持った違和感を独自の視点から記事にした。
しかし、その原稿を見たニューヨーカーの編集者さえ、この記事を発表するべきではないという意見を出す者がいた。
なぜなら当時の世論とは大きく異なる意見を述べていたからだ。
ハンナ・アーレントが指摘したのは次のようなことだった。
- アルゼンチンの主権を無視してアイヒマンを連行したことに正当性はあるのか?
- そもそもなぜイスラエルにアイヒマンを裁く権利があるのか?
- アイヒマンは凡庸な小悪人に過ぎず、絶対悪ではない。
- 本当に問題にすべきナチスの罪はユダヤ人に対するだけではなく、人類全体に対するものである。
- ユダヤ人指導者の中にアイヒマンに協力した者がおり、そのためユダヤ人の犠牲者が増えた。
- 結論ありきの裁判はショーにしか過ぎない。
アーレントの主張の中に、「ユダヤ人指導者の中にアイヒマンに協力した者がおり、そのためユダヤ人の犠牲者が増えた」というものがあったため、これが多くのユダヤ人の逆鱗に触れた。
何百万人ものユダヤ人を殺したアイヒマンを擁護するのかと。
この記事が原因でアーレントは世間から大バッシングを受け、多くの友人を失い、大学での職も失いそうになる。
そんな中、アーレントは大学の講義で多くの学生に語りかける。
裁判でアイヒマンは、ただ命令に従っただけだと主張した。大量のユダヤ人を殺したにも関わらず、そこには動機も善悪もない。思考をやめたとき、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。思考をやめたものは人間であることを拒絶したものだ。私が望むのは考えることで人間が強くなることだ。
簡単にまとめるとアーレントの主張は
「考えることを止めたら、人間じゃなくなる。思考し続けよう!」
ということになる。
多くの学生から拍手喝采を受けるが、教室にいた友人には理解されなかった(映画には描かれていないが後に和解する)。
【映画ハンナ・アーレント見どころ】
次に見どころをいくつか挙げておこう。
- アイヒマン裁判の場面は実写映像(モノクロ)が効果的に使われている。その場面でのアイヒマンの当事者意識・罪悪感の欠如(どころか、裁かれることに理不尽を感じているようなふてぶてしさ)は見物。「俺、命令されてやっただけだもん。仕方ないじゃん。俺は悪くないだろ。」という態度に愕然とし嫌悪感を抱くだろう。
- 家族のように慕っていたクルト・ブルーメンフェルトというシオニストが病気で倒れ、見舞いに行くシーン。一番の理解者だと思っていた彼にも「お前のことがわからない」と言われ、寂しそうな表情を見せる。それでも「自分の意思は曲げない」という信念を表現する演技は圧巻。
- 映画の最後に、大学の教室で学生を前に自分の真意を演説するシーンは大迫力。鳥肌が立った。
映画ハンナ・アーレントが本当に伝えたかったことは何か?
ハンナ・アーレントのレビューでよく語られるのは「悪の凡庸さ」「思考停止の危険さ」ということだが、この映画が本当に伝えたかったことはそれだけだろうか?
この映画が本当に伝えたかったことは、「正しいと思ったことは勇気をもって声に出そう。それこそが社会を前進させる。」ということではなかっただろうか。
自分が正しいと思うからといって、皆が正しいと思うということはもちろんあり得ない。正義はそれぞれの立場によって変わる。
ひとつの正義の反対側には、同じ質量をもった正義が存在している。だからこそ世界から争いが絶えないわけだし、わかり合うというのも現実的には難しいかもしれない。しかしそれら価値観がぶつかりあうことによって、より高次の価値観が生まれる可能性があるとも思う。
意見のぶつかり合いが生じるには、そもそも意見を持つことが前提だ。しかしここ数十年の日本の社会を見たときに感じるのは、声の大きい人が主張することが正義であり、自分の損得のために強者を忖度して、自分の意見を持たない人が増えていると感じるのは私だけだろうか。
強いやつの言いなりになって、何も考えないほうがラクだろうとは思う。でも、そんな人間が増えれば増えるほど、社会は停滞するのではないか。
大げさかもしれないが、自分の意見を持たない人間が増えることによって全体主義的なものが芽生え、自由に発言する機会すら奪われていくような気がする。
自分の頭で考え、自分の言葉で、自分の意見を発信する勇気を持った人間になりたいと思った。そんな程度のことであっても社会貢献になるのではないだろうか。
コメント